きれいなホットケーキを焼くために最も大切なことは、我慢です。ごくごく弱火で熱したフライパンに生地を丸く流し入れて、表面にふつふつと気泡ができても、もう少しだけ我慢。ひっくり返すときに生焼けの生地がフライ返しに付かないよう、端っこの部分に火が通るのを待つのが肝心です。ちなみに私は、ホットケーキを小分けにして保存しておきたいので、小さくてうすっぺたいものを10枚くらい焼くことが多いです。生地の量としては、直径10cmのホットケーキを2枚焼けるくらい。何だか「くらい」がやたら多いのですが、普通のお菓子よりも「くらい」が多くても大丈夫なところが、ホットケーキの良いところのひとつです。
それから、生地をひっくり返すときに大切はなのは「大胆さ」です。失敗しても人生には何ら影響がないので、えいやっとやります。じっくり焼いた生地は、すべすべした質感できれいなうす茶色。こんなに完璧な形状のものを作ることのできる自分を抱きしめたくなります。
ホットケーキを焼くとき、お菓子を作るとき、ジャムを煮るときなど、甘い匂いが立ち込めるキッチンで長時間立って待っている必要がある場合は、いつも本を読みます。この日たまたま読んでいたのは村上春樹『海辺のカフカ』で、この作品といえば「地獄でホットケーキ」。これは村上春樹本人が創作したことわざで、きっと「まるで地獄のような最悪な状況でも、ホットケーキを焼いて食べるくらい、無理矢理にでも余裕を持ってみせようじゃないか」というような意味ではないでしょうか。(ネットで調べても出てこなかったので、推測です。)
ところで、村上春樹の作品をひとつ挙げてみて、と言われたとき多くの人は『ノルウェイの森』と答えると思います。実際、私がはじめて読んだ(そして一度途中で読むのをやめてしまった)のも『ノルウェイの森』でした。世界観と内容が容易ではなく、主人公の性格が一風変わっていて、性的な描写が謎に多い、色々な意味で難しい作品だと思います。主人公の友人(高校生の時に自殺してしまった)の恋人であったヒロイン 直子が入院する「阿美寮」に行くシーンや、そもそも直子の病気は何であったのか、謎も多いです。これらの疑問は、「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年9月号)及び『街とその不確かな壁』(新潮社,2023年)を読み、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み、『海辺のカフカ』を読み、『スプートニクの恋人』を読み、と村上春樹の世界観に浸かっていくことで自然と理解できる(正解に辿り着くという意味よりかは、納得できる答えに辿り着くイメージです)のですが、「よく分からない作品をいくつも読む」というのはとても難しいことです。
村上春樹は、「自分」と「その影」が存在する中で、「影」も自分同様に「影そのもの」の意思を持って生きており、影たちの生きる別の世界が存在する、そしてその別の世界に行くことができる、という物語を幾度も展開しています。さらに、影と自分が繋がっている場合、切り離されている場合の両方が存在し、時として自分が影なのか自分自身なのか分からなくなる、という状況も発生します。(影と自分が切り離されることで、影が弱り始めたり、本人がいなくなったり…と物語によって様々変わります。)
ここからさらに深掘りすると、その別世界は「門」から入ることが出来て、辺りを「壁」で囲われていることが多いです。(『街とその不確かな壁』では、明確にふたつの世界が存在し、影の住む街(もうひとつの世界)は門と壁で区切られており、門を入るためには自分から影を切り離す必要がありました。これをさらに具体化させたものが『ノルウェイの森』に登場する「阿美寮」なのではないだろうか、と個人的には考えています。隔離された地域に建設され、入り口には門が存在し、中にいる直子は「自己が引き裂かれる病」に罹っている、といったことなどからの推測です。2023年出版の最新作を読むことで、1987年の作品のことが分かるなんて!と思うかもしれませんが、『街とその不確かな壁』は、先述した通り1980年の『文學界』で中編小説として書かれています。(その時のタイトルは『街と、その不確かな壁』」であり、内容は似通った部分も異なる部分もあります。)村上春樹が作家人生の中で常に抱えている思いが改めて形になった集大成的作品によって、過去の作品の謎めいた部分が理解できるというのはとても面白いことで、これが読書の醍醐味のひとつであると思います。)
このような、「自分」と「影」の物語は今も昔も存在し、そのような作品に触れる度に村上春樹のことを考えます。昔の作品で例を挙げると、アンデルセンの『影』(原題:SKYGEEN 1847年)。「親指姫」や「人魚姫」といった作品とは雰囲気の異なる、大人でダークなストーリーです。(青空文庫で読むことができます!)次に現代の作品で例を挙げると、田中靖規『サマータイムレンダ』(漫画連載 2017年〜2021年)。アニメ化もされた人気作品で、ループ物の世界観が面白いです。本物そっくりに化けた影が日常の世界に侵入してきて、本物の人間を殺して入れ替わる恐ろしさがありつつ、影が味方になって共に敵と戦う胸熱展開でおすすめです。
ホットケーキをひっくり返しながら影を思う日でした。ブログの全体公開は久しぶりだったのですが、お楽しみいただけたでしょうか。FCに加入するとたくさんのブログアーカイブを読み返すことができるので、実はとてもおすすめです。