
上島珈琲店の期間限定商品 お豆富のミルク珈琲を飲んだ。とうふの漢字が豆に富で、コーヒーも珈琲なのがちょっとうれしい。瀬戸内レモンとか、十勝牛乳とか…そっち系の言葉の魔法的な美味しさのバフを感じられる。ちなみに、(土地名)+(食べもの)を読むのが好きな方は地理的表示保護制度(GI)を調べるのがおすすめです。夕張メロン、種子島安納いも、その他全国津々浦々、たくさん書いてあります。農林水産省によると、「地域の気候風土や伝統的な製法と結びついた農林水産物・食品などの名称を知的財産として国が登録・保護する制度」だそう。話をコーヒーに戻すと、漢字で書いた「珈」「琲」それぞれは玉部という部首と音を合わせて構成されており、「珈」には玉(つまり宝玉)を使った婦人のかんざし「琲」には多くの玉を連ねてつくった飾り、という意味がある。もしかすると赤く熟したコーヒーの実を宝石にたとえてこの漢字になったのかもしれない。ただ音を当てただけかもしれないけれど…。
肝心のお豆富のミルク珈琲の味!これはものすごくお豆腐だった。豆乳、無調整豆乳。青臭くないぎりぎりのお豆腐感に、これまた絶妙な量の甘みと、ちょっと弱いくらいの、あくまでもお豆腐が主役ですというくらいのコーヒー。全体的に甘くないとレビューで見ていたので、注文する直前になって「マジの豆腐だったらどうする…他の期間限定のココナッツミルク珈琲が美味しいのは分かっているのに…」と躊躇したものの、結局頼んで飲んでみると、そこそこに甘かった。甘くて美味しい。普段甘いのみものを飲まない人からすると、かなり甘い。上に乗っているお豆富ホイップなるクリームもさっぱりと甘く、味噌田楽をイメージしたという塩っぱいソースはチーズのようでいいアクセントになっている。和食系のごはん屋さんに行ったときには生麩の田楽を好んで注文するのだけれど、あの田楽にべっとりと乗っている味の濃い、パンチのある味噌だれを想像していたので、大逆転。美味しいので誰でも挑戦する価値あり…よりかは、お豆腐、豆乳好きのあなたなら行ったっていい、美味しいから…という感じです。
(上島珈琲店の余談。メニューを眺めていたら湯蒸しチーズケーキなるものが売っていた。ゆむし。蒸し焼きより美味しそうで、健気だと思った。蒸すって普通はお湯でやるものだから湯の文字を取って蒸しチーズケーキで伝わるのに、湯蒸しチーズケーキ。なんか食べてみたくなる。)
この前、とある仕事で自分の喋りを文字起こししたものをしっかり読む機会があって、改めて思ったのは私の話し方の癖!そしてその癖は、今みたいに日記のような文章を書くときはもちろん、エッセイを書くときにも色濃く出ていて、うわああと頭を抱えたくなる。気づいてからは、エッセイなんかはとくにその癖を出さないように、意識して文章を書いている。とはいえ、癖を治すことを第一に文章を書いていると、それこそ本末転倒。思っていることが書けないとか、巧妙な言い回しを諦める、みたいなことになってしまうのだ。
その癖は、「ない」「けれど」「という」だ。無限にこれで喋ってしまうし、書いてしまう。助けて。何かを質問された場合として、自分の話を喋りで展開するとき、私は自分の言いたいことの中心部分を話すまでに、前提を述べたり、言われそうな返答に対してあらかじめ対応しておく癖があって、それをする際に「〇〇というものがあって」「〇〇というつもりではないけれど…」という具合になってしまう。(という +1) そういうわけで、さすがにやばいのかなと思って、自分の好きなエッセイを注意して読んでみたところ、全体としての文体が喋り口調に近く、自分の思考や出来事を組み合わせながら進んでいく文章の場合だと、「ない」「けれど」「という」は案外たくさん出てくるのだった。これらの単語を気にして読んでみるまで、全くもって気づかなかった。もしかして、私の文章を読んでくれているみんなも気づいていなかったとか、あったりして。大学で行うアカデミック・ライティングや何かを要約して提出する文章はこの限りではなく、ごく普通の、事実陳列文章になっているので、喋りとエッセイに限った話なのかもしれない。「かもしれない」もだ。自分との向き合い、答えのない問い、あいまいなままにすること、外なる存在の観察。こんなのは「かもしれない」まみれであり、「けれど」の連続で、「という」と一度フレームを定める言葉を使わないとやっていけないのではないか。ああ、自分の文章のはしばしが気になってくる。気になってきたから、日記をまた付けようかな。しばらくは家計簿と読んだ本や観た映画、勉強の記録程度だったから。
たくさんの本を読むと、文章はこんなにも自由でよかったのかと驚くと同時に、自分の文章について、さらに気にかける必要があることに気づく。文章はその内容と構成に限らず、句読点の打ちどころ、です・ます調と、だ・である調の混在、どの漢字をひらいたり閉じたりするか(ひらくは漢字をひらがなにすること、閉じるはひらがなを漢字にすること)、なんかはすごく自由であり、その自由性が文章の雰囲気を形づくる。漢字、ひらがな、カタカナ、ときに英語を混ぜあって書かれるのが日本語の文章だからこそだろう。どの言葉を漢字にしてどの言葉をひらがなにするかの基準は「想定される読み手の年齢層に合わせる形で」が全てではない、書き手の自由勝手である、と気づくのにこんなに時間がかかるとは。うおおこれをぜんぶひらがなでかいたっていいのだ。やっぱり、素敵な文章を書く道のりはまだまだ長い。なにが素敵な文章を形づくる要素なのかを知るために、書くだけでなく読むことも継続したいものですな…。

