こんにちは、むぎです。今回のブログは、最近読んだ新書、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書 2024年)の感想などを書きます。今の私が「新書を一冊おすすめして欲しい」と言われたらこの本を選びます。気になる方はぜひ読んでみてください。
まずはじめに、この本は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という題名であるが、その最重要の問いに対し端的に答えが示されるのは終盤も終盤である。もし、働いていて本がほとんど読めないが、なんとか毎日数ページずつ読んでみよう…という習慣を始めたばかりの人がこの本を手に取ったとしたら、きっと「いつになったら答えを知ることができるんだ!」ともどかしく思うだろう。主な内容が日本の明治時代から現代までの労働史と読書史であるために、「今は歴史の勉強をしたいわけではないんだよなあ」という感想を抱く人もいたかもしれない。…このような、「問いに対する答え(=情報)をノイズ無しに、すぐに知りたい」要は「今知りたいこと以外(今は)知りたくない」という気持ちに支配されている状況こそが、本を読めなくなってしまっている状況そのものであり、私たちはノイズ(≒他の文脈,他というアンコントローラブルな存在)を受容できなくなっている。と、本書で述べられていた。たしかに、自分のことで手いっぱいな状況では、自分を不確定な外界へと晒し探究の姿勢を取るということは難しい。
「本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか。私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。」(233頁,同書より引用)
ソクラテスの遺した「不知の自覚」あるいは「無知の知」を思い出す。「知りたい情報のみを取り入れられる環境をセットし、コントロールできる対象(それは多くの場合「自分」である)にのみリソースを割く」という生き方になりつつある社会で、私たちは、「自分には知らないことがあり、何を知りたいかも分からない。それなので遠回りでも良いから、今すぐ役に立つかは分からない知識を身に付けてみよう」と思えるだろうか。かなり無理だ。不確定要素に時間、体力、金銭を投入出来るような余裕のある生き方ができるような社会ではない、と感じる。
ところで、最近SNS上で「近くの本屋は品揃えが物足りなく、Amazonで買う方が何でも揃っていて便利である」というポストが少しだけ盛り上がっていた。個人的な意見としては、たしかに欲しいと思った本を確実に入手できる点においてはAmazonの方が優れているが、Amazonや同様の販売形態では、購入者の需要に基づいた本しかおすすめされない点と、本屋という存在自体には、「この世にはこんな本が存在しているんだ 知らなかったな」という「無知の知」のような感覚を得られる点において優れており、必要性があると考えている。
このような体感主義的な意見を述べたとき、必ず思い出すのは市川沙央『ハンチバック』で書かれた、出版界は健常者優位主義であるという内容であり、あくまでもこれは、足を伸ばせばある程度満足できる本屋に行くことができる=体、時間、立地、金銭的余裕の全ての条件が揃っている立場の人間の意見である…と頭の中で一度考えている。(注:『ハンチバック』では、「健常者優位主義」に「マチズモ」(男性優位主義)とルビが振られていた。本来ならば「エイブリズム」と振るだろう。これに関して気になった方は、ウェブメディア 本の話の「受胎小説」の引力――『ハンチバック』論 菊間 晴子 を参照してほしい。)
(超・余談:「誰にでもひらかれている場所」が本当に誰にでもひらかれているのか、についてはこれからも考え続ける必要がある。例えば美術館や博物館は、市民にひらかれた社会教育施設、文化施設なわけであるが、施設へと不便なく足を運べる人は多くない。───そもそも遠い、行きたい時間に空いてない、お金がない、観て回るほどの健康さが足りない、子供連れでは難しい、など。もちろん、このような問題に対しては各施設が解決に向け取り組んでいるが、恒久的で根本からの解決には至っていない。(解決されていたとしたら、日本のミュージアムはものすごく市民にひらかれて多様性にあふれた施設になっているし、施設という範囲を超えて「市民がより文化的に過ごすことのできる仕組み」までも提供できるようになっているはず。)個人的な意見です。)
話を『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に戻す。
結局、私たちが働いていると本が読めなくなるのは、仕事のしすぎだからなのだと分かった。予想はしていたが…。ただ、働きすぎているのは「頑張らなくては!もっとやれる!」という自分が自発的に思い行動しているという自己責任の努力の結果ではなく、新自由主義という「競争心を煽ることで、あくまでも「自分から」戦いに参加させようとする」(245頁 同書より引用)社会の在り方に対応せざるを得なくなってしまっている結果である、という点が学びになった。休むことを頑張る、とか、休めてえらい、といった一見すると何だそれは〜と思える発言も、納得できるようになった。同書では、自分の全身全霊を捧げて働く社会ではなく、「半身で」働くような社会に変わっていく必要があると提言していた。そんな社会になりますように…週休3日の社会…。
最後に、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の問いに直接的には関係のないパートでも忘れたくない文章がたくさんあったのが、この本をおすすめしたい理由だ。一部を引用する。
「つまり読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越を示すための道具になりやすい。」(160頁)
「読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階級を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業を名づけたものだったのかもしれない。」(162頁)
私は読書や勉強が好きで生涯続けていきたいと思っているし、この良さを多くの人に少しでも伝えたいと日々過ごしているが、この言葉を忘れてしまったら、きっと私は嫌な人になるだろう。どうして学びたいのか、知識を身につけたいのかという、答えの出ない(というか、答えが常に変わり続けている)疑問を一旦傍において、今すぐ利用価値のある情報以外の知識を漠然と求められる環境にいること自体を忘れないようにして、発信を続けたいと思う。珍しく、内省的な終わりかたに…。
ということで、最近読んだ本の感想などでした。「こういうのいいかも〜」と思ってくれた方はぜひファンクラブに入会してみてください。今までのブログのアーカイブが全部読めます!すごい!