こんにちは、最近のむぎです。
久しぶりに枝豆をゆでたら、ゆで汁が赤っぽい色になった。まるできき湯を入れたみたいな色の熱湯が、ぶくぶくと泡立って枝豆を揺らしている。沸き立つ鍋の中を覗き込みながら、脳内では枝豆に含まれているアントシアニンが水に溶け出したからだ〜と理解しつつも、やっぱり「緑色のものから赤色が出てくる」ということ自体は不思議だった。
ところで、枝豆は①ゆでる前に塩もみをして、②ゆでるときにお湯に大量の塩を加えて、③ゆでた後にも塩粒が残るくらいに塩を振ると美味しくなるらしいが、(白ごはん.comを参照)これってさすがに塩を使いすぎなのでは…と不安になる瞬間がある。それなのに、今回ゆでるときも、結構景気良く、除霊できそうなくらい塩を振ってみたけれど、お店で食べる枝豆はもっと塩っけがあって美味しいんだよな…と物足りない結果になった。何かコツが必要なのだろうか?
湯気がぼわぼわ立つ枝豆の入ったザルをゆらして冷ましながら、小さい頃に実家で枝豆が出ると、うちわで冷ましてほしい、と頼まれていたのを思い出した。枝豆だけじゃなく、とうもろこし、酢飯なんかも必死になってあおいだ。「むぎが頑張ってくれたおかげで美味しく食べられるわ」という言葉をずっと懐かしみ、大切にしている。
この話は配信でしたことがあるかもしれないけれど、思い出したので書こう。
お正月、家長家では必ず実家に親戚一同が集まって、お節料理とお餅をお昼前から晩まで食べることになっている。そこで登場するお餅は餅米を蒸すところから始める手づくり系のもので、恐らくは20年以上使い込まれた、歴戦のお餅マシーンがついてくれるのだ。(さすがに臼と杵ではできない。)それで、そのお餅マシーンは、餅米が蒸し上がるとアラームが鳴って、「つく」準備が整った合図をくれる。ここで家長家の子どもが登場して、濡らしたしゃもじを持って、お餅マシーンを補助するかたちで、ボウルの中でぐるぐると回り潰れくっついていく餅米を、ペタペタと餅になるまでつくのだ。(今思うと、ただしゃもじで餅米を撫で付けているだけなのだが、当時の私は本気だった。餅を丸くさせているのは自分だと思っていた。餅力(もちぢから)があると思っていた。)お餅がつき上がると「今年もむぎのおかげで美味しいお餅が出来たわよ」とおばあちゃんに褒めちぎってもらっていた。
ところが成人してからのお正月、久しぶりに実家に帰ると、お餅マシーンは「一人で勝手に餅をつきまくっていた」のだった。おばあちゃんが手早く料理する音が聞こえる台所の足元で、お餅マシーンはガタガタガタガタと震えながら、餅をつきまくっている。私は「あけましておめでとうございます」よりも先に、「お餅(誰かがペタペタつかずに放置してて)いいの!?」と声を上げると「あらやだ、お餅は勝手に出来上がるのよ」と返ってきたのだった。たしかに、手を洗ってお線香を上げ終わる頃にお餅はつき上がっていたし、いつも通りの美味しい味だった。おばあちゃんも、「むぎのすってくれた大根おろしの辛味餅は美味しいわ」といつも通りに優しい。
今になって、こういう優しさをいっぱいもらって育ってきたことに気付けるようになった。たくさん、おばあちゃん孝行をしよう。
最近のむぎは、ついにカーテンを採寸してオーダーして、まくらと花瓶も買った。QoLアップ、日差しでアツアツな毎日もこれで終わり。あと、たまごっちパラダイスにしっかりハマっていて、いろんなたまごっちを育てている。与える食べものと育てる場所(りく、そら、うみ、から選べる)と体調で「何っち」になるか変わっていくところが面白い。例えば、にんじんを与えて「りく」で育てるとみみっちになる。…しかし、まめっちもほとんど同じ条件で育つらしく、何かの分岐点があるらしい…。まだまだ謎の多いたまごっちの生態の調査はこれからも続く。
遠くを眺める練習、というものをしている。これは視力の低下を遅れさせるための、最後の抵抗のような訓練で、歩くとき、乗り物に乗っているとき、お風呂に入っているとき、いろんなときに出来る限りの遠く遠くを眺めるのだ。どうやら本来は、稜線だったり水平線だったりを眺めるらしいのだが、あいにく私の生きるコンクリートジャングルにそんなものはなく、仕方なく高いビルの角を眺めている。今の生活の中で、私の視認できる最も遠い場所は絶対に空だけれど、空を見たとしてそれが「少し上の、近い空」なのか「奥の奥の、遠くの空」なのかさっぱり分からないのだ。私が不器用で臆病なのは、こういう場合に遠くの空を眺める練習をしないところだろう。月は眺めるのに。