・もう6月も3分の1が過ぎている。こんなに速かったっけ?はやくお正月にならないかな、おもちとおせちが食べたい気分。私が一年で一番好きなときは大晦日〜新年の2,3日目くらいまで。澄んだ空気が時間の経過に反して留まって、周りには人が沢山いて、ふわっと幸福に感じる。「人生もうこれでいいや、十分だ」とも「また365日くらいやってみようかな」とも思う、不思議な期間。
・最近、村上春樹の本を沢山読んでいる。この1週間で、『ノルウェイの森』の上下巻と、『海辺のカフカ』の上巻を読破した。同じ作者の本を手当たり次第に読み続ける行為は私にとって社会生活においての自己防衛の態度・傾向にあたる。
・単純に、1日のうちの「余分に考え事をしてしまう時間」を全て本に捧げることになる。お風呂の湯船の中での時間とか、電車で移動している時間とか、(猫舌なので)温めたスープがほどよく冷めるまでの時間とか、頼んだケーキとコーヒーが運ばれてくるまでの時間とか。あとは、意図的に他者との会話をしたくないときも本を読む。ヘッドフォンをして本を読んでいるとまず人は私のことを放っておいてくれる。なんていうか、本は水中みたいだと思う。紙面という水面に顔を突っ込んで、たまに息継ぎのように顔を上げるような。
・あと、1冊の本を数日間抱えて読み続けるというのが個人的に良いみたいで、そうすると時計的な日々の境界線がぼんやりしてくるので「気付いたら今週終わってたなあ」といった感じになる。こういう風に時間をやり過ごしたいときも少なからずあるので、長編小説は相性が良い。
・ただ、同じ作者の本を読み続けると、どんどんその作者の言葉の使い方に慣れてしまって、その作者の文章を「読みにくいな」と思った最初の感覚が薄れてしまうのはひとつ問題ではある。個人的に本を楽しむ分には問題ないのだけれど、私には「良いと思った本は人に紹介する」という使命があるので「どれも読みやすいよ」と、うっかり言ってしまわないように気を付けたい。『ノルウェイの森』をたったの3章目で投げ出した私もいれば、2日で上下巻とも読み切ってしまった私もいる。そのことを忘れない。
・話を本から美術館に移す。最近、清澄白河あたりにある東京都現代美術館(MOT)に行ってきた。「さばかれえぬ私へTokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展」という展覧会が会期中で、それを見た。東京都とトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)は2018年から中堅アーティストを対象とした現代美術の賞「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)」を実施していて、その第3回を受賞した志賀理江子さんと竹内公太さんによる作品が展示されていた。私は特に、「2011年の被災後、突如始まったあらゆる分野での復興計画に圧倒された経験を、人間が「歩く」営みとして捉えなおした」という志賀さんの作品が印象的だった。
・展示されていた志賀さんの作品のひとつに『風の吹くとき』という映像作品があった。映像型のインスタレーションで、鑑賞者の私たちは大きな横長の壁に映し出された映像を、瓦礫を模したようなビニールシートに包まれたビーズクッションに埋まって眺めるというものだった。インスタレーションという言葉については、「その場自体がまるまる作品で、その場が「ある」ということに作品の成立が支えられているようなもの」と認識してくれたらいいと思う。(例えば『モナ・リザ』は、ルーブルの壁に掛けられていようと、河川敷に置かれていようと『モナ・リザ』なので、インスタレーションではない。)
・その作品は、暗く寒い夜に、海と陸の境に建てられた、長い道の上を歩く女性がいて、その女性が2011年の震災とその後の実情を語るものだった。そして、語り手の女性の後ろには、寒さからか鼻先と唇が同じくらいに赤く染まった、また別の女性が、何も言わず、目も開けずにただひたすら付いてきていた。語り手に導かれるように、ただ歩いていた。たまに、目の端の方で赤色に染まった海が映されたり、ふらふらとおぼつかない足取りでやはり目を瞑って歩く男性がいたり、老人がマイクを持って目を瞑り歩く女性に話しかけていたりしていた。時折、語り手の声は「ヤマセ」という海からの冷たくて湿った風に邪魔をされて、聞き取ることが難しかった。
・作品で語られた東北の「復興」とそこに住む人々の真実は明るいものではない。痛々しく、悲しく、切実だった。私たちが自然の猛威から感じる崇高さなどはどこにもない。(そもそも自然の崇高さを感じとる人間の前提条件には、自然の猛威を前にしたとしても自身の安全は確約されている状態である、というものがひとつある。)
・たしかに痛かった。作品を見た日、はじめて私は震災の痛みを、擬似的に知ったのだった。目の奥が絞られるように熱く、心臓は、何かの神経に余分に触れるように不規則に動いた。ずきずき、というより、どくどくした。針みたいだった。
・私たちが何かを忘れないために、この作品について言うのであれば本当の復興と、人々の回復の重要性、必要性を忘れ続けないように───思い出すということにならないように───するためには、痛みを伴って記憶する必要がある、と改めて感じた。その痛みは、あの日起こった事実を、作品という媒体で私が間接的に知覚したものではあるが、被災者の数値や、繰り返される津波の映像を、テレビの前で安全に眺めるよりも確かなものである。
・会期は今月18日まで、そしてなんと料金は無料。2階のサンドイッチ屋さんも美味しそうだったので、ぜひ行ってみてほしい。あとブルーボトルコーヒーも近いのでおすすめ。私はそこでコールドブリューコーヒーとサフランとバニラのクッキーを買った。あとお土産に羊羹も。なんだかのどかな場所だったな。私が野良猫になったら、あの辺りに縄張りを設けたい。