何を思ったか、再生時間が2時間49分もあるスイスの自然散策動画を再生して、見入ってしまう。グリンデルワルトという山岳リゾートの村から出発して、人の姿の見えない、自然が美しい静かな場所をただひたすら歩いているシーンが続く。たまに、「海外の繁華街や夜市を練り歩く動画が再生数を稼げる」みたいなつぶやきをインターネットで目にするのも頷ける。壮大な空中撮影だったり、ドラマティックな画角から撮影するのも素敵だけれど、人と同じ視野の広さで、人の目が見る大きさで、まだ見たことのない土地の数々を動画で見る方が旅行気分に近いのかもしれない。私は謎にスイスのヤギに懐かれているような気がしているし。
動画に登場するヤギがものすごく綺麗で毛並みもよくてびっくりした。白くて、毛が絡まっていない。赤ちゃんヤギがそのまま毎日お風呂に入って成長したような具合の白さ。一体どうやってお世話しているんだろう。広々とした土地で放牧されて、好きなだけ草をかじっていた。夜はどこで眠るんだろう。ヤギって自分の帰るところを分かっているのだろうか…。
動画を見ながら、空気遠近法(絵画技法のひとつ)のお手本のような景色だ、とも思った。近景から遠景にかけて、茶色、緑色、青色と色が変わっていく。ずっと昔からある自然の姿だ。それでも、空気遠近法が発見・確立されたのは15世紀のルネサンス期、ダヴィンチによってであり、もっと前に発見されていてもおかしくない…みたいなことってないのか…?と、疑問が浮かんだ。
こういうのは、描く必要がなかった、とか、描くための方法(油彩画の発達みたいな)が発明されていなかった、といった理由がありそうだ。例えば、古代エジプト美術では立体感のない横向きの体で顔だけこちらに向けている人や神が描かれた壁画が印象的であるが、これは「それ以外のテイストで描く必要が別になかったから」という理由でそのような形になっている。そのテイストが宗教的に合理的とされる形を保っていたからだ。(実は、ものすごく古い時代のエジプトの写実的な絵も残っていて、それは植物だったり鳥の絵だったりする。)
話をルネサンスの興ったヨーロッパ(イタリア・フィレンツェ)に戻そう。ルネサンス期よりも前に、西洋でも宗教画が描かれるようになって、その中で空間の奥行きを写実的(あるいは、科学的に)に表現する必要はなかったから、その時にはまだ空気遠近法が生まれなかったのかもしれない。当時、ルネサンス以前の時代を行きたキリスト教の人々は、自分の現世ではなく死後の救済や天国を考えて生きていた(死後のために現世を生きていた)わけだし…。宗教画としても、教会にあるステンドグラスのような、平面的で分かりやすい、モチーフのはっきりしたものの方が合理的であったのかもしれない…。
次に、単純に描く方法がなかったパターンも考える。単純に、フレスコ画やテンペラ画などでは空気の遠近感が表現できなかったとか…。(これは全て私個人の予想なので、後でちゃんと調べておきます!)フレスコ画(「フレスコ」はイタリア語で「新鮮な」(英語:flesh)から来ています)やテンペラ画は、油彩画よりも乾く速度が圧倒的に速いので、細かく調整する時間がなかった…みたいな。多分、油彩画じゃない形で空気遠近法が使われている作品はたくさんあるだろうけれど、「0から1として発見する」のは油彩画になってやっと…だったのかもしれない…。かもしれない祭りだ。
あとは、「ダヴィンチ自身に科学的な知識だったり科学的視点からの観察眼があったから」という個人的な才能もありそうだ。ダヴィンチってすごいから。「ルネサンス」という神中心から人間中心の文化に移行しようとする試みの中で、自然に目を向けて、それを絵にしようと思ったのではないだろうか…。時代、技術、才能、知識、さまざまな要素が複雑に絡み合って、然るべきタイミングで生まれたのが空気遠近法なのかもしれない。「科学によって、神の存在がなくなっていった」みたいなことをいろんな本で読んだ。これもひとつの例だろう。
人間はなんとなく青が好きだよなと思う。作品名、広告のコピー、コーヒーカップ、いろんなものに使われている。それは、人間にとって「青」が馴染みのあるもののようで、そうではないものだからだと思う。空気遠近法的に見る空気も、空も、海も、流氷も、私たちを包む世界の多くの部分が青いのに、それを手元にすくってみれば透明だ。海も氷も透明で、目の前の空気に色はない。また、私たちの体に備わった青はほとんどない。血は赤い。青い目の人がいたとしても、本人の目に自分の虹彩の色は確認できない。(鏡を使えば見えるけれど) 植物や動物にも青いものは少ない。フェルメールの使った「ウルトラマリン」、北斎の使った「べろ藍」、それぞれの青に私たちは時代を超えて魅了されている。圧倒的に近いようで遠いもの。それが青だから、好きになってしまうのだと思う。