2022/08/02
小説が書けない。3月には半月で6万字を一作書き上げていたにも関わらず、時間に余裕が出来た今、全く書けない。書けないどころかmacを開いていない。書けない理由を予想すると「今私には活力があり元気で大体のことが満たされているから」に尽きる。精神が乱高下しているか、それか苦しくなっていないと書けない。明治時代の文豪みたいなことを言ってしまって情けないけれど、本当にそう。
文章を書くにあたって、私は生きづらさの叫びというものを大切にしている。生きづらさを文章上で叫ぶ。満たされていると叫びようが無くなる。それなので、書けない。
多分生活習慣をめちゃくちゃに戻して、寂しい、悲しいなどの曖昧なことを独りごちてカフェインを摂って暗い部屋に篭っていたら書ける。でも誰がそれを望むんだ…と考えたとき、顔が浮かぶのは私しかいない。少なくともこのブログを読んでいる人は「むぎには健康で健やかでいてほしいな〜」と思ってくれているはずだから。しかし、「健やかに生きて何も生みたいものを生めず、時間を無駄にする私」が一番しょうもないので、さっさと私は苦しむ状態に戻ったほうがいい。なんだけれど、無理だった。夏のあったかさとおひさまの眩しさって強すぎて本当に精神が健康。すご〜〜〜い。アイスおいし〜、冷やし中華おいし〜。
大体気分の波は1ヶ月くらいでくる(最初はホルモンバランスの乱れと重なってるのか?と思ったがそんなこともなかった)のに、サクッと元に戻ってしまう。美味しいものとかを食べて、散歩して、にこにこしたらもう大丈夫。夏の間は文章書けませんとか、やめて欲しい。
私が普通になったら本当に無価値で面白くない(自分にとっての自分が)、そしてその事実がなによりも一番ストレスという理由で薬も飲まず通院もせず過ごしてるはずだったのに、本当に元気すぎて病院とは縁遠くなった。
Twitterでも呟いた通り、なんとか8月中には完成させたいんだよなあ〜と思っているのに….。3万文字くらい書いて放置してある。早く手を付けないといけない。
一旦今やっている勉強を全部放置したら書けるとは思うけど、勉強楽しくて…。あと多分、現実逃避(小説を書かなきゃいけないという現実)のために勉強してる節があって、でも勉強って基本的には「正しい」ことだし、「努力」してることが一旦認められるから(自他共に)、無限にやめられない。勉強が確実に私の良質な血肉になることは間違いなくとも、折角の文章のアイディアと有限であるまとまった休みをここで無駄にするのは最善ではない。(今ここにそれをはじめて書いて、ひしひしと自分の駄目さ加減を客観的に認識している。文章にするって大事。)
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話は変わって、先日アーティゾン美術館で会期中の「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」に行ってきた。青木繁は《海の幸》でとても有名な画家で、アーティゾン美術館にとっても《海の幸》はとても重要な作品である。(森村泰昌という芸術家が「M式「海の幸」」という青木繁を再解釈した企画展を、アーティゾン美術館で開催したくらいだから。)坂本繁二郎は、「コンスタブルとターナー(両者とも関係の深かったイギリスの画家)」的な感じで多分青木繁と繋げられることが多いと思う。二人とも、同じ年(1882年)に福岡県久留米市で生まれている高等小学校からの同級生だ。青木繁は28歳の若さで肺結核で亡くなっているが、坂本繁二郎は長生きだった。
この企画展は二人の作品を比較して見ることができたり、個人としての来歴もよく知ることのできるとても学びの深いものだった。何より、作品の種類も数も本当に豊富。それに青木繁が坂本繁二郎にあてた書簡まであった。
私は青木繁の《海》という作品がとても好きで(調べてみてね。クロード・モネ《雨のベリール》っぽい感じが有ってなお好き。その《雨のべリール》もアーティゾン美術館にあって、今同じチケットで見ることができます。)それを楽しむのをメインに頑張って坂本繁二郎も勉強しよう…くらいの気持ちで足を運んだが、坂本繁二郎の絵が良過ぎて衝撃を受けた。夏目漱石も認めるくらいの画力と存在感で、色使いも筆遣いも美しい。彼の描いた静物画は、空間を描いた上に更に物を描くのではなく、描かれたものを起点に空間が広がっている(空間が存在していることを認識できる)ようだった。それから一番良かったのは牛の背中の絵。1匹の白い牛が背中を向けて座っている絵で、その背骨の窪みと、そこに落ちた陰と、背骨から続くしっぽの冷たいしなやかさとが、何もかも完璧だった。良かったなあ。
それから牛以外にも馬の絵がたくさんある。(坂本繁二郎は馬、牛、月をたくさん描いている。)エメラルドグリーンの瞳が美しい白馬が可愛かったなあ。空気に溶け込むような馬の毛並み、波と一体化して跳ねるようなのびのびとした体。すごかった。
月の絵も素敵で、一番うるっときた。晩年に近い坂本繁二郎は月を沢山描いているけれど、本当に一番最後に描いた晩年の月は「ほとんどが雲に隠れている月」だった。画家としての人生と、絵画の流れのコンテクストがこんなに絡み合っていることに感銘を受けた。
会期中にまた行けたらいいなと思っている。久しぶりに心の動く絵を観ることができた。でも多分、坂本繁二郎の人生をさらさらと辿ったことが大きく作用して感動している。絵画を見る上でのコンテクスト、大切だなという気づき。